◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(五)

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◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(五)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、星合七夕祭と星辰信仰

 天神祭の神事は七月七日の星合(ほしあい)七夕祭から始まりる。七夕というと夜空の牽牛(鷲座のアルタイル)と織女(琴座のヴェガ)でる。大阪天満宮は今から千五十年程前(九四九年)にこの地(北区天神橋)にご鎮座した。鎮座の由来によりますと「星合(ほしあい)の池(※注1)(※注2)(※注3)に松樹(しょうじゅ)あり、松樹に霊光を見る」とあるが、これは平安の頃の星辰(せいしん)信仰のようでる。

 昔の星辰信仰(星に神秘的な霊力を託して尊崇する信仰)というのは、空に輝く星に対する信仰ではなくて、水に映る星に対する信仰であったと考えられている。そういうことから、古い文献にも大阪天満宮の星合(ほしあい)池で昔から星合七夕祭が行われていたことが記されていた。

 七夕祭が行われる七月七日に、全講社の講元が本殿に参拝して神事が行われ、七月二十四日に宵宮、二十五日に夏大祭のクライマックスを迎える本宮の天神祭が始まる。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)天暦二年(九四九)天満宮が御鎮座になった時、この池水に霊光が映ったとの伝承がある。また、天正二年(一五七四年)の『石山軍記』に「天満山の北、明星の池、星合の池の間、少し北に属し、織田信長本陣を布き」と記録されている。星合の池は、少なくとも千年以上の歴史を持つ古池である。

 なお、付近に七夕池、明星池、夫婦池等が明治年間まで現存していたそうだ。昭和の初めまで池には「宇賀の社」があり、紅梅紫藤が咲き乱れ、付近には歌舞伎を常打とした天満八千代座、浪花節の国光席、吉本興業発祥となった天満花月吉川館などの寄席が隣接していた歓楽街であり、極めてにぎやかな所であった。

(※注2)かつて天満には「明星池」「七夕池」「星合池」という星にちなむ三つの池があり、天満三池という。現在の星合池(亀の池)は、古い資料によると「はす池」「長池」「亀池」などと呼ばれていた。

 昔の「星合池」は大阪天満宮の北門を出て国道一号線に出た左側付近である。「七夕池」堀河小学校の片隅に跡地がある。「明神池」も今はガレージになっている。このかつての天満三池に映る星が信仰の対象になっていたようだ。疫病への対処を星に祈る星辰信仰である。

 そういう由来のある池なので、池が消えていっても残った池を星合池と呼ぶようになったのであろう。この星辰信仰と、もともと天満の地に祀られていた大将軍社、菅原道真公の怨霊を鎮める信仰の三つが結びついて大阪天満宮の天神信仰になったようだ。星合池は、ロマンチックというよりも昔の人々の切なる願いをかけた池であり、名前だったのである。

(※注3)星合の池:大阪天満宮の境内の北側にある小さな池のことだ。池には「星合橋」という小さな橋がかかっていたり、「星合茶屋」という名の茶店がある。江戸時代の資料を見ると、星合の池の少し北には「明星池」という池もあったが、こちらは明治時代に無くなっている。

 江戸時代の文献『摂津名所図会大成』によると、その昔天満宮に神様が鎮座した最初の夜に、大きな松の樹が生え、その梢に明星が降臨し、星の光が池の水に光り輝いたということから「明星の池」と名づけられたとされている。現在も残っている星合の池の方の由来は伝わっていないようだが、池の前にある由来書には先の明星池の伝説が、星合池のそれとして紹介されている。しかし、江戸時代には既に二つの池が混同されていたようなので、そこから来た誤解と思われる。


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